お城関係のブログ

私が訪れたお城について簡単に紹介します。

赤穂城–赤穂浪士たちのお城

今日は、兵庫県赤穂市にある赤穂城について説明します。

 

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赤穂城本丸の入り口



まずは歴史について簡単に説明します。

 

もともと赤穂の地は池田氏が治める姫路藩の領域でした。これが1615年に分藩されて赤穂藩が成立します。藩主は池田氏の一派です。

 

(なお、明石藩も同じような経緯で姫路藩から分藩して成立しています。セットで覚えたいです。)

 

成立当時、赤穂の地には掻上城という小さなお城があり、ここが藩主のお城でした。

 

1645年に池田氏が改易となると、常陸笠間藩から浅野長直(ながなお)が入封します。

 

これ以降、しばらく浅野氏の支配が続きます。赤穂というと浅野のイメージがありますが、それは途中から始まったのです。

 

その後しばらくして、浅野長直は、掻上城という小さなお城ではなく、もっと立派なお城を建てようということになりました。

 

これで作られたのが赤穂城で、作られたのは1661年のことです。かなりあとになってできたのですね。

 

その後浅野家は3代続きますが、3代目の浅野長矩(ながのり)の治世の1701年に傷害事件(後で説明します。)を起こしたとして、浅野家は改易となります。

 

ちなみに、その後有名な赤穂事件が起こります(後で説明します)。

 

さて、その後はあれこれの大名がコロコロ入れ替わり、近代に至りました。

 

次に見所を説明しますが、赤穂城ではむしろ赤穂事件を説明したいので、ここは本当にあっさり説明します。

 

見所は天守台です。本丸の片隅にあります。

 

実は赤穂城には天守がありません。そのため、この天守台は最後まで使われなかったということになります。

 

なぜ天守を作らなかったのか。日経電子版2015年9月25日によると、やはり財政難が大きな理由とのことです。もう一つの理由は、将軍への遠慮とのことです。前述の通り赤穂城は1661年に作られたのですが、この時江戸城はすでに火災により天守を失い、以後江戸城天守は再建されません。それへの遠慮があるとのことです。

 

お城の説明は以上です。

 

次に赤穂事件について説明します。ここが一番伝えたいところですが、お城とは直接関係ないので、ご了承ください。

 

赤穂といえば赤穂浪士が浮かぶと思いますが、なんかよくわからないという人も多いと思います(私も名前しか知りませんでした)。

 

勝手に起承転結で分けて描いてみたいと思います。この分け方は私が勝手にやっったものですので、ご了承ください。

 

①起

登場人物は、赤穂藩3代藩主の浅野長矩吉良義央(きらよしひさ)という旗本の名門です。2人は、吉良義央浅野長矩の上司という関係でした。

 

時は5代将軍徳川綱吉の頃です。江戸城において朝廷からの勅使を出迎える儀式が行われました。この儀式のスタッフとして赤穂から浅野が、また、浅野などスタッフの指南役として吉良が、それぞれ江戸城に集められます。

 

そうして勅使を迎える準備をしている中、浅野長矩吉良義央に斬りかかるという事件が起こります。幸い吉良は背中と額に怪我を負っただけで済みました。浅野はすぐに周りにいた人に取り押さえられることとなります。

 

浅野が吉良に対して切りかかった理由はよくわかっていません。今風にいうと、上司である吉良が浅野に対してパワハラのようなものをしており、我慢の限界が来た浅野が切りつけたという説がありますが、詳細は不明です。

 

もちろん将軍は怒ります。江戸城の中で傷害事件を起こすなど言語道断だからです。

 

2人の断罪の結果、浅野は切腹を命じられましたが、吉良の方は手を出さなかったということで無罪放免となりました。

 

②承

赤穂でこの知らせを聞いた浅野の家臣たちは大いに不満を募らせます。喧嘩両成敗のはずであるのに、吉良が無罪となったからです。

 

しかし個人的には、ここはちょっと疑問があります。前述の通り吉良は浅野に対して直接手を出していません。もちろん、パワハラの部分まで含めて考えれば吉良にも原因はあるのでしょうが、このような場合でも喧嘩両成敗が適用されるのでしょうか。

 

さらに幕府は、家臣たちに対して赤穂城の明渡しを求めます。

 

③転

家臣たちの間では意見が対立します。籠城して徹底抗戦を説く者、すぐに江戸に行って吉良を討ち取ろうという者、まずは浅野家の再興を優先すべきだという者など、色々な意見が出ました。

 

しかし、浅野家の再興は結局幕府に認められませんでした。

 

そこで家臣たちは、もう失うものはないとして、主君の仇討ちを決意し、47人(46人という見解もあります)の赤穂浪士が江戸に向かいます。

 

④結

雪が降る真冬に、赤穂浪士たちは吉良邸に討ち入り、吉良を斬殺します。そしてその首を、江戸泉岳寺にある浅野長矩の墓の前に差し出して、なき主君を供養します。

 

47人はもちろんそのまま御用となり、切腹を命じられました。そして47人は、主君の後を追って死んでゆきました。

 

その後、吉良家の人間も左遷されることになり、赤穂浪士たちの仇討ちが成功したのでした。

 

めでたしめでたし、というお話です。

 

さて、個人的にはやはり上の疑問が残ります。吉良は本当に仇を打たれるべき人だったのでしょうか。

 

ちなみに、高校の日本史の教科書では、赤穂事件について次のように紹介されています。

 

江戸城中で赤穂藩浅野長矩が朝廷関係の儀礼を管掌する旗本で高家吉良義央を傷つけ浅野は切腹、翌年浅野の遺臣たちが吉良を討った(『詳説日本史』(山川出版社,2015))

 

この記述を読めば「遺臣たちは何を逆ギレしているの?」と思うのが普通でしょう。吉良は本当に敵討ちをされるような人だったのでしょうか。

 

ということで、長くなりましたが、これにて赤穂城の説明を終えます。時間があればぜひ行ってみてください。あと,私の疑問について答えをご存知な方がいらっしゃれば,コメントお待ちしております!

 

それでは。