お城関係のブログ

私が訪れたお城について簡単に紹介します。

広島城–毛利輝元のお城

今日は,広島市にある広島城について説明します。

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広島城天守

1 広島城の歴史

広島城の歴史は,①毛利輝元時代,②福島正則時代,③浅野氏,④近代以降の4つの時代で整理すると良いです。

1−1 毛利輝元時代

(1) 築城

最初に広島(以下「広島」という地名は,今の広島市街地のあたりを指す狭い意味で使います。)に城を築いたのは毛利輝元です。毛利輝元は,あの有名な毛利元就の孫です。

もともと毛利氏は,代々郡山城を本拠地としていました郡山城は,広島よりも40キロほど内陸,現在の安芸高田市にあった山城です。

郡山城は山城であり防御の観点からはよかったのですが,なにぶん山の上にあるため城下町の展開が難しい上,内陸にあるため瀬戸内海の水運を上手く使うことができないという欠点がありました。

そこで,毛利輝元が着目したのが,ここ広島の地です。ここは太田川の三角州ですから,平たい城下町の展開という観点からも,水運の観点からも適切な場所でした。

そこで毛利輝元は,1589年に広島に築城を開始しました。

(2) 関ヶ原の戦い

天守は早くに完成しましたが,城下町の整備は難航しました。そうしたところ,1600年に関ヶ原の戦いが勃発します。毛利輝元は西軍の総大将でしたから,西軍が敗北したことによって,戦後,毛利元就は大幅に領地を削減されてしまいます。

もともと毛利元就の領地は,広島を中心に,今の山口県広島県島根県の全部と鳥取県岡山県の一部を全て領有するほどの力を持っていました。しかし,この領地削減によって,今の山口県全部を領有するのみとなってしまい,広島を明け渡して萩に移らざるを得なくなってしまいます。

ということで,毛利輝元は,城下町の完成を見ないまま広島の地を離れることとなります。

(3) ちなみに

以上の経緯を見てもわかると思いますが,毛利元就広島城と関係ありません。広島というと毛利元就というイメージがあるかもしれませんが,元就はあくまで郡山城の人間です。

1−2 福島正則時代

毛利元就に代わって広島城に入ってきたのは関ヶ原の戦いで東軍として活躍した福島正則です。彼は今の広島県全土を納める大名として,広島城に入城したのでした。

彼は,毛利輝元時代に未完であった城下町を完成させるとともに,その領土である今の広島県全土のあちこちに支城(メインのお城以外のサブとしてのお城)を築きます。

(2) 洪水

そうしたところ,広島で洪水が発生し,広島城が破損します。

当時のルール(武家諸法度)では,城の改修には幕府の許可を取らなければならないとされていました。しかし福島正則は,許可を取ることなく城の改修をしてしまったのです。

そのため,福島正則は広島を追われ,長野県の北部の狭い領域のみを支配することとなってしまいました。

(3) どうして無許可で改修をしてしまったのか

ちなみに,福島正則どうして無許可で広島城を改修してしまったのでしょうか。これについてwiki福島正則)は,だいたい次のように説明していました。「福島正則は,あちこちに支城を建てていたが,その中には,一国一城令が出されてからルールに反して建てたものがあった。そのため,幕府はその城の破却を命じていた。そうして幕府と揉めている間に洪水が発生し,広島城の改修が必要となった。そのため,福島正則は,広島城の改修の許可を幕府に求めた。しかし,この時は幕府と揉めていたので,なかなか幕府からその許可は出なかった。そこで福島正則は,許可が出ないまま城の改修を断行してしまった。」とのことです。

1−3 浅野氏の時代

福島正則に代わって広島城に入ってきたのが,浅野氏(浅野長晟(ながあきら))です。もともとは和歌山城にいたのですが,この時に広島城に入ってきました。ちなみに,浅野氏というと赤穂というイメージがあるかもしれませんが,赤穂の浅野氏とは本家(広島),別家(赤穂)という関係にあります。

そして,浅野氏が代々広島を収めることとなり,明治時代を迎えることとなります。

1−4 近代

明治時代になっても,天守は破却されないで残っていましたが,原爆の投下によって跡形もなく破壊されてしまいました。今ある天守は,戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

将来的には木造で立て直す計画があるらしいので,楽しみです。

以上が広島城の歴史でした。

2 見所

次に広島城の見所を紹介します。

広島城の見所は,二の丸です。

ここの二の丸は,防御の観点からある工夫をしています。それは,外からは二の丸の様子が見えないように壁を築いておきつつ,本丸からは二の丸の様子が見えるように壁が築かれていません

イメージとしてはこんな感じ。よく考えられていますね。

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広島城二の丸の様子。本丸側には壁がない。

3 最後に

ということで,今日は広島城について説明しました。皆さんも是非行ってみてください。

それでは。

篠山城の見所!

今日は,兵庫県丹波篠山市にある篠山城について説明します。

 

まずは由来を説明します。

 

かつて篠山盆地には八上城(やがみじょう)というお城があり,伝統的に丹波一帯を支配領域としていた波多野氏が居住していました。波多野氏が明智光秀丹波攻めで敗北すると,矢上城には,明智光秀,その滅亡後は前田玄以が入城し支配していました。

 

そんな中,徳川家康関ヶ原の戦いで西軍を破り,未だ大坂城に残る豊臣家を包囲するとともに,西国に多く残る豊臣方の諸大名を牽制するために,大坂周辺にお城を築いてゆきます。その一つとして,八上城にかわる篠山の要として新たに築かれたのが,ここ篠山城です。

 

篠山盆地中心に「笹山(変換ミスではない)」という丘陵があり,ここが築城の場所として選ばれました。

 

篠山城は実戦を意識して迅速に建築が進められました。例えば,防衛の観点からあまり必要性のなかった天守は思い切って最初から建築されないなどの工夫がされました。その結果,最終的には着工から僅か1年足らずで完成したのです。

 

その最中にはさまざまなことがありました。例えば,篠山城の縄張り奉行の藤堂高虎は,工事の進展が遅いとして家康に呼ばれてお目玉を食らったこともあるそうです。

 

竣工した篠山城に入城したのは,家康の実子である松平康重という人物です。家康がここをいかに重視したかがわかりますね。

 

その後篠山城は,松平→青山といずれも譜代大名が治め,明治時代を迎えます。

 

明治時代になると篠山城は廃城となり,本丸にある大書院以外の建物は全て解体されてしまいます。残った大書院も1944年に火災で焼失してしまいました。

 

以上が簡単な由来です。

 

次に見所を説明します。見所は篠山城の大書院です。

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篠山城大書院。二条城二の丸御殿を思わせる壮大さである。



上述の通りここは廃城令ののちもしばらく残っていたのですが,1944年に火事で焼失してしまったので,今建っているのは2000年の復元です。

 

すごいのがその大きさです。写真では伝わりづらいですが,二条城の二の丸御殿に大きさも形も似ていて,壮大です。やはりこれほど立派な建物を建てることができたのも,ここが重要な譜代大名が治める場所であったからでしょう。

 

ということで,今日は篠山城について説明しました。ここは日本100名城にも選定されている素晴らしいお城です。ぜひ訪れてみてください。

 

それでは。

 

淀城−西国防備の要の城

今日は、京都市にある淀城跡について説明します。

 

まずは淀城の歴史を簡単に説明します。

 

淀城は、豊臣時代以前のもの(淀古城)と徳川時代のもの(以下便宜上「新淀城」といいます。)の二つがあります。

前者と後者は作られた場所が異なります。今城跡として残っているのは新淀城で、古淀城はここより北に約500メートルの場所にありました。

 

本ブログでは淀城跡の説明をしています。そのため、厳密には新淀城の説明のみすべきかもしれませんが、淀古城についても軽く触れます。

 

淀古城の歴史は古く室町時代ですが、このあたりは省略します。

 

その後色々あって、秀吉が権力を集中させた頃に移ります。1589年、秀吉の弟の豊臣秀長がこれを改修して秀吉に与えます。秀吉は側室の浅井茶々にこのお城を産所として与えます。これにちなみ、茶々は淀殿と呼ばれるようになります。

 

その後このお城は、秀吉の養子秀次の家臣に与えられます。しかしその後、淀殿に念願の子秀頼が生まれると、秀次は(どういったわけかよくわからないらしいですが)謀反の疑いをかけられて切腹となり、これに伴って淀城も廃城となりました。

 

さて、次に新淀城の歴史に移ります。

 

新淀城が作られたのは大坂の陣の後のこと。大坂城を新たに西国統治の要とした徳川氏は、その大坂城の守りを固めるために周囲にお城を多く築かせます。その流れの中で新淀城が築かれることとなりました。

完成は1625年。翌年には秀忠や家光が相次いでここの縄張りを調べにきたと言いますから、徳川氏がここを重視していたことが分かるでしょう。

 

なお、天守は二条城のものが移築されました(ちなみにその二条城には新たに伏見城から天守が移築されました。で、その伏見城は廃城となりました)。

 

初代藩主は松平定綱という人物で、その後は稲葉氏が城主となり幕末を迎えます。

 

今では建物は何もなく、ただ少し石垣が残るだけの公園となっています。

 

見どころですが、その石垣ぐらいでしょう。正直この公園はあまり整備が進んでおらず、鬱蒼としているという印象を抱きました。荒れ果てた場所に立って、往時の栄光に想いを馳せるしかないでしょう。

 

ということで、今日は淀城について説明しました。場所は京阪淀駅のすぐ近くで、アクセスは良いです。時間があればぜひ寄ってみてください。

 

それでは。

 

佐和山城跡–彦根城に取って代わられたお城

今日は、彦根市にある佐和山城跡について説明します。仏像とは関係ないですが,お許しください(こういうことが繰り返されるようならば,「仏像関係のブログ」というタイトルを変更しなければなあと思います)。

 

彦根市といえば彦根城が有名ですが、その近くにはかつて佐和山城というお城がありました。

 

以下、歴史を簡単に説明します。

 

お城の創建は鎌倉時代らしいですが、この辺りは思い切って省略します。

 

時代は豊臣政権の頃に飛びます。

 

豊臣政権の時代になると、堀→堀尾という代を経て、石田三成が入城します。

 

このお城は、近江統治の要衝、そして東国の徳川家康の監視の役割を担うものとして重視され、5層4階の立派な天守も建てられました。

 

関ヶ原の戦いの2日後、東軍がこのお城に攻め込みます。石田三成のお城を東軍が見過ごすはずがないということです。

 

この時お城にいたのは三成本人ではなく石田家の他の人間でした。いずれにせよ、佐和山城はあっけなく東軍の手に落ちてしまいます。

 

この戦いでは、特に天守が焼失しませんでした。そこで、家康はこのお城を重臣井伊直政に譲ります。

 

しかし、その後になって、やはり元西軍のお城をそのまま使い続けることは問題であると考えた井伊家は、新たに彦根城を築き、そちらに拠点を移すこととしました。

 

佐和山城天守はその時徹底的に破壊され、今では礎石すらもあまり出土しないほど何もない場所となりました。

 

この際、佐和山城の石垣の一部は彦根城に移されています。上記経緯からしたら転用すべきではなかったのかもしれませんが、彦根城は、今なお大阪に残る豊臣家の監視のために急ピッチで作られたため、転用せざるを得なかったのです。

 

以上が歴史でした。

 

次に見所です。

 

正直にいうと、見どころという見どころはありません(失礼か)。頂上からの景色が良いと言われますが、ちょっと木々が生い茂っているのでよく見えないのが正直なところです。

 

佐和山は現在では麓の龍潭寺の私有地であるらしく、お寺の境内から登ることとなります(無料です)。

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佐和山城跡の入り口。お寺の入り口を兼ねているのでちょっとわかりにくい。



道は完全に山道なので、靴などには気をつけてください。また、季節によっては蜂がいるので、それも注意してください。

 

天守趾までの所要時間は、20-30くらいだと思われます。道は結構険しいので、良いトレーニングになります。

 

見どころはないと言ってしまいましたが、行ったという事実自体に価値があるのかもしれません。

 

彦根城観光のついでに、彦根城の前身とも言えるここ佐和山城跡を訪れても良いでしょう。

 

それでは。

彦根城-破風と白壁の美しいお城

今日は、彦根城について説明します。

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まずは彦根城の歴史についてごく簡単に紹介します。


説明は関ヶ原の戦いから始まります。


現在彦根城がある場所近くに、佐和山という山があります。ここに佐和山城という4層4階の立派なお城がありました。豊臣時代の佐和山藩という藩の城で、城主は石田三成です。


関ヶ原の戦いでは、ここが東軍によって攻められ、陥落します。なお、天守は焼失していません。


陥落後の佐和山城は、徳川家康により井伊直政に与えられました。彼は徳川家康重臣で、関ヶ原の戦いでの武功として佐和山を与えられたのです。


井伊直政は、佐和山城に入城します。しかし、彼は佐和山城を与えられてすぐに病気で亡くなってしまいました。


二代が就任します。二代の頃になり、やはり西軍のお城を残しておくことは問題があるとの話が出できます。そこで、佐和山城は破却されてしまいます。


その代わりに、井伊家のお城として新たに作られたのが彦根城です。


金亀山(こんきやま)という小高い山を削り、その上に建てられました。そのため彦根城を金亀城とも言います。


井伊直政は初代彦根藩主とされますが、以上の通り、実際には彦根城に入ったことがありません。


さて、彦根城は1604年から急ピッチで作られました。その理由は、徳川方の西国の入り口にあたるお城として重視されたからです。周辺7つの大名を使い、天下普請として作ったと言いますから、徳川の彦根城にかける思いの大きさが窺えます。


それを象徴する話は次の通りです。彦根城は西を向いています。佐和山城は東を向いていました。

彦根城が西を向いているのは、もちろん西国を監視する趣旨です。一方、佐和山城が東を向いていたのは、東国を監視するためでした。両者は近い場所に建てられていますが、役割は全く違うのです。


最終的にお城が完成したのは1622年です。天守の建築にあたっては大津城天守の部材が使われました。


以上が創建に関する話です。


話が一気に飛んで明治にいきます。


明治時代、多くのお城が廃城となりました。彦根城も廃城とされ、櫓がどんどん解体されてゆきます。


そんな中、明治天皇滋賀県行幸に来て、解体作業中の彦根城を見ます。大隈重信も同行していました。


大隈重信は、解体作業のために梯子などがかけられている天守と、それを悲しそうに見る街の市民の様子を見て感銘を受けます。


そこで、近くにいた明治天皇に対して直接、彦根城の廃城をやめてほしいと頼み込みました。それによって解体は中止となり、彦根城天守は破却を免れたのです。


現在では、天守が国宝、城跡が特別史跡に指定されています。


以上が彦根城の歴史でした。


次に見所について簡単に説明します。


いろいろ書くことはありますが、ここでは、厳選して天守のみ説明します。

テーマは二つです。①彦根城の大きさについてと、②彦根城の白い壁についてです。


まずは①彦根城の大きさについてです。

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写真を見てください。屋根のような波波したものがたくさんついていますね。


こういう波波したものを破風(はふ)と言います。彦根城には合計18個の破風がついています。破風がこれでもかというくらい敷き詰められています。


また、近くでよく見ると壁が少しだけ内側に傾いています。


また、最上階には欄干がついています。これも大きく見せるための飾りです。実際にはベランダのようなところはなく、最上階から外に出ることはできません。


これらの効果で、彦根城は城下町からとても大きく見えます。


彦根城に登城してまず驚くのは、大きさのギャップでしょう。


街から見るより遥かに小さいです。井伊家は当時18万石でした。そこまで大きなお城は建てるべきではないと考えたのでしょう。


次に②彦根城の白い壁についてです。


もちろん白い壁は漆喰を塗っているからです。最近塗り直しています。


外からだと綺麗な壁にしか見えませんが、実は、この壁の内側つまり建物内部には狭間がたくさんつけられています。


狭間とは、鉄砲や弓を発射するための穴のことです。


つまり、平時は漆喰の壁に覆われて見えませんが、有事にはこの壁を破って中から鉄砲や弓で攻撃できるということです。


美しさを追求しつつも、実戦への備えは崩しません。素晴らしいお城ですね。


他にも見所は沢山ありますが、長々書いても仕方がないのでこれくらいにします。


日本の国宝天守は5つしかありません。その一つの彦根城、皆さんも是非いってみてください。


それでは。

明石城–巽櫓と坤櫓の美しいお城

今日は、明石市にある明石城について説明します。

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元々この辺りは池田光政が藩主を努める姫路藩の領域で,船上(ふなげ)城という姫路藩の支城が建っていました。


そんな中幕府は,中国や九州など西国にいる外様大名の監視のため,山陽道の要所であった明石を姫路藩から分離させ,新たな藩を設置することにしました。これによって誕生したのが明石藩です。


初代藩主には,小笠原忠政という人が選ばれました。彼は元々松本藩にいた大名です。


ついで幕府は,忠政に対し,船上城に代わる防御力の高い城の築城を命じます。これによって創建されたのが明石城です。1619年の完成です。築城に当たっては,船上城や伏見城の櫓が移築されたとのことです。


その小笠原忠政は,明石に入城してすぐに豊前小倉に移ってしまいます。以後は複数の大名家を経て,最終的には幕末まで越前松平家が藩主を務めることとなりました。


次に見所について説明します。


明石城は大きな二つの櫓が現存しています。明石駅方向から見て右にあるのが巽(たつみ)櫓,左にあるのが坤(ひつじさる)櫓です。いずれも近世以前の建築で,重要文化財に指定されています。


見所はやはりこの二つの櫓が高い石垣の上に並んで建っている様子です。西国の要らしく,すごく堅牢な雰囲気があります。


ちなみに,明石城には天守がありません。天守台(天守を立てるための石垣)はあるのですが,結局天守は創建されなかったのです。


その理由ですが,産経新聞には次の通り書いてあります。


県教委と明石市によると、明石城天守閣が建てられなかった理由として、中津城大分県中津市)から天守を移築する計画があった▽築城に神経をとがらせる幕府に配慮した▽大砲の技術が進み標的になる建物を建てる必要がなかった-などが考えられるが、はっきりとした理由は分かっていないという。(産経ニュース2018/3/17)


ちなみに,同じく兵庫県にある赤穂城も,天守台はあるけれども天守が建てられていないお城です。そういう関係で繋げておくと覚えやすいかもしれません。


ということで,観点ではありますが,明石城はこれくらいにしておきます。


明石と姫路は近いです。姫路城観光のついでに(失礼?),明石城もぜひよってみてください。


それでは。

尼崎城−最近完成した天守

今日は、兵庫県尼崎市にある尼崎城について説明します。

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尼崎城(復元)



まずは概要を簡単に。

・復元天守で、平成31年に営業を開始しました。中に入ればわかりますが、ピカピカです。

・当時の服を着て写真を撮るスペースがあるなど、完全にレジャー施設のようになっています。ただし、お城の説明書なども少し存在します。

・入城は大人で500円です。

 

次に尼崎城の歴史を説明します。

 

関ヶ原の戦い豊臣氏を滅ぼした徳川氏は、大坂城を築いて西国の要とし、その大坂城の防備のために周囲にいくつもお城を築かせ、譜代大名を住まわせました。

その一つが尼崎城で、尼崎藩初代藩主は戸田氏鉄という人です。

 

尼崎城は、周囲のお城の中でも特に大阪に近いということで(12キロほどしか離れていない)、南にある岸和田城とともに特に防備の要として重視したそうです。

 

天守は4層4階です。同じく西国の防備のために作られた明石城などに天守が築かれなかったことなどからすれば、徳川氏がいかにここを重視したかがわかるでしょう。

 

尼崎藩は、当初は西宮、神戸、兵庫そして須磨のあたりまで領地を有していました。ざっくり言えば、今の神戸市あたりまでの港町を有していたということです。これらの地域は、灘の酒などに代表されるように酒造が盛んなほか、兵庫にはかつての大輪田泊があったように港町として大いに栄えていました。

つまり尼崎藩は、当初かなり経済的に裕福だったのです。

 

しかしその後、1769年にこれらの領土が天領として召し上げられてしまい、大きな痛手をおいました。

 

なぜ召し上げられたのか、調べましたが理由はわかりませんでした。

幕府との関係が悪化したというような話は特になかったので、この辺りが酒造や水運でいよいよ繁栄したために、幕府が直接管理したくなったというふうに予想します。

 

そして幕末を迎え、廃城令によって天守が解体されました。

 

現在建っているのは平成30年頃のもので、ピカピカです。なお、当時の天守があった場所はすでに小学校などが建てられているため、現在の天守は、当時よりもすこに西に建てられています。

 

次に見所ですが、尼崎城を舞台としたアニメ風の作品が大画面で放映されているコーナーがあり、迫力がありますので、これがおすすめです。

 

内容は、簡単に言うと近松門左衛門尼崎城について紹介するというものです。

 

なぜ近松門左衛門が?ということですが、彼は一時期尼崎にあるお寺に晩年よく滞在していたのです。

 

ということで、今日は尼崎城について説明しました。

 

皆さんも、ぜひ訪れてみてください。

 

それでは。