お城関係のブログ

私が訪れたお城について簡単に紹介します。

淀城−西国防備の要の城

今日は、京都市にある淀城跡について説明します。

 

まずは淀城の歴史を簡単に説明します。

 

淀城は、豊臣時代以前のもの(淀古城)と徳川時代のもの(以下便宜上「新淀城」といいます。)の二つがあります。

前者と後者は作られた場所が異なります。今城跡として残っているのは新淀城で、古淀城はここより北に約500メートルの場所にありました。

 

本ブログでは淀城跡の説明をしています。そのため、厳密には新淀城の説明のみすべきかもしれませんが、淀古城についても軽く触れます。

 

淀古城の歴史は古く室町時代ですが、このあたりは省略します。

 

その後色々あって、秀吉が権力を集中させた頃に移ります。1589年、秀吉の弟の豊臣秀長がこれを改修して秀吉に与えます。秀吉は側室の浅井茶々にこのお城を産所として与えます。これにちなみ、茶々は淀殿と呼ばれるようになります。

 

その後このお城は、秀吉の養子秀次の家臣に与えられます。しかしその後、淀殿に念願の子秀頼が生まれると、秀次は(どういったわけかよくわからないらしいですが)謀反の疑いをかけられて切腹となり、これに伴って淀城も廃城となりました。

 

さて、次に新淀城の歴史に移ります。

 

新淀城が作られたのは大坂の陣の後のこと。大坂城を新たに西国統治の要とした徳川氏は、その大坂城の守りを固めるために周囲にお城を多く築かせます。その流れの中で新淀城が築かれることとなりました。

完成は1625年。翌年には秀忠や家光が相次いでここの縄張りを調べにきたと言いますから、徳川氏がここを重視していたことが分かるでしょう。

 

なお、天守は二条城のものが移築されました(ちなみにその二条城には新たに伏見城から天守が移築されました。で、その伏見城は廃城となりました)。

 

初代藩主は松平定綱という人物で、その後は稲葉氏が城主となり幕末を迎えます。

 

今では建物は何もなく、ただ少し石垣が残るだけの公園となっています。

 

見どころですが、その石垣ぐらいでしょう。正直この公園はあまり整備が進んでおらず、鬱蒼としているという印象を抱きました。荒れ果てた場所に立って、往時の栄光に想いを馳せるしかないでしょう。

 

ということで、今日は淀城について説明しました。場所は京阪淀駅のすぐ近くで、アクセスは良いです。時間があればぜひ寄ってみてください。

 

それでは。